章立ては以下のようになってます。


では、ページを開いてみてください。


<内観療法の勧め> ↑戻る

離婚すれば、ハッピーな生活が待っているか、というと決して、そうではありません。離婚後の孤独、<夫婦>という共依存関係の崩壊などで、心は、ひどく傷ついています。鬱状態や情緒不安定、過剰な攻撃性の現れなどで、職場の人間関係や、地域の人間関係を傷つけてしまうこともあります。

こういうときに内観という心理療法が有効です。ですが、素人が「みようみまね」で行っても、情緒障害や行動障害を悪化させる危険があります。ですから、「重要情報源一覧」に収めた内観研修所などに連絡を取って、専門家のアドバイスに従ってください。アドバイスに従い、忠実に内観を実践すれば、あなたと、あなたを取り巻く人々との人間関係は、劇的に改善されるはずです。ご夫婦仲が危機的状況にあり、離婚を考えていらっしゃる方にも、内観療法を勧めます。

できれば、ご夫婦がペアで内観研修所を訪ねるのが一番いいのですが、なかなか、そうは行かないのが実情です。ですので、まず、あなたが内観研修所を訪ねてみてください。あなたが変わらなければ、配偶者も変わりません。安ぼったい(とは、いっても健康保険が効きませんから、結構高い)カウンセリングに通うよりは、集中内観(大体、1週間程度です)を受けた方が、人間関係が一気に変わります。

恐らく、私のページを開いてくれた方は、離婚後の鬱や躁で悩むか、離婚直前で「心の悲鳴」をあげていらっしゃる方が、ほとんどだと思います。首都圏(関東)近郊なら、カップルセラピーもそこそこ充実していますが、それ以外の地域だと、腕のいいカップルセラピストには、まず出会えない、というのが実情でしょう。しかもセラピストによるカウンセリングは、効果の現れが遅く、保険が効かないために、料金的にも高い、という欠点があります。

内観を売り物にしている専門家集団は、内観研修所だけではありません。精神科や心療内科を診療分野とする病院もあります。病院なら保険(健康保険とか国民健康保険とか)が効きますし、集中内観をして<入院>という形をとれば、精神保健衛生法の指定患者(任意入院)になりますから、費用負担はさらに軽減されます。カップルセラピーに比べ、内観の専門家集団は、全国各地に点在しているというメリットもあります。

さあ、「古いあなた」を捨てて、内観療法によって、「新しいあなた」に生まれ変わってみませんか。内観療法によって、鬱を克服した経験のある私には、言えることはそれだけです。離婚の傷を、一日も早く、どうか癒してください。




<内観療法とは> ↑戻る

内観とは、内面をつぶさに観察することです。個人の好みとか、既存の知識や体験を踏まえて物事を判断しない観察のことを言います。

内観の歴史は古く、淨土真宗の「身調べの行」に原点があります。今日では、この修行法から親鸞上人の教えを取り除き、宗教的色彩も薄めて、心理療法の一つとして確立されています。最近行われている内観は、内観道場とか内観研修所などの静かな場所で一定日数閉じこもり、自分を見つめるということが多いようです。その場で、両親をはじめ、兄弟、親族、友人、近隣の方々に対し、今までお世話になったことを想い出し、お世話になったことについて、お返しができたかどうかを調べていくうちに、何もお返しができていない自分に気付き、感謝の気持ちが高まってくるというものです。

具体的には、畳半畳ほどのスペースを、屏風(びょうぶ)やつい立で仕切り、その空間の中で、正座かあぐらを組みます。そうしてから、まず、あなたのお母さん(お母さんが幼い時期に亡くなられたか、失そうされた方は、お母さん代わりの方)について、(1)していただいたこと(2)して返したこと(3)迷惑、心配掛けたこと、を順に思い出していきます。

これを2時間くらいのペースで、1歳から6歳(幼少期)のあなた、小学校低学年のあなた、小学校高学年のあなた、中学校のあなた、高校生のあなた、大学生のあなた、社会人1年生から3年生くらいまであなた、といった順に、あなたの成長段階に応じて思い出していきます。意識を集中させて、ひたすら思い出す作業を行います。お母さんの肩たたきをしてあげたとか、お母さんに代わって料理を作った、ことなどが(2)の「して返したこと」になります。このとき、例えば「あなたが進学校に合格してお母さんを喜ばせた」みたいなことは、「して返したこと」には含まれません。進学校に入学して、「利益を享受」したのは、あなた自身ですからね。

お母さんの後は、お父さんになります。その後は、ご兄弟とか、配偶者、ご自分のお子さん、職場の同僚たちを対象に、内観を繰り返していきます。狭い空間に閉じこもって、ひたすら思い出す、という作業は、かなりの苦痛を伴います。でも、ここで、あなたの身近な人々に、どう支えてもらったか、思い出さないと、あなたの一生は「感謝する」ということが分からないまま、終えることになるでしょう。

決まった時間になると、カウンセラーがあなたのもとに来て、屏風を少し開けてくれます。その時は、正座して、カウンセラーに挨拶し、いつの時期の、だれに対しての内観を行っていてか、お話ししましょう。どういうことを「していただいていたのか」「して返したのか」も伝えてください。きっと感極まって、涙があふれてくると思います。それでいいのです。涙が「古いあなた」を洗い流していくことでしょう。

思い出す、という作業を繰り返すうちに、潜在意識の中から、過去の記憶が数珠つなぎのように、次々とよみがえって来ます。畳半畳の中での生活も、3日もすれば慣れてきます。思い出すことが楽しくなってきますよ。そして、あなた自身、「して返したこと」が、あまりに少ないことに気付くのではないのでしょうか。エゴや我欲にこだわってきたご自身に気付くのではないでしょうか。




<心の歪みを直す> ↑戻る

 もし、物事を判断しようとする人が、不調和な歪(ゆが)みの心で物事を観察すれば、歪んだ観察になってしまいます。不調和な歪みの心とは、偏ったり、こだわったり、とらわれたりしている精神状態のことです。

 多くの人たちは、物事を認識するときにそんなことは少しも考えることはなく、自分の考えを主張します。自分は正しいと主張します。「自分の目で見たから」とか、「自分の耳で聞いたから」とか、あるいは「直接教わったからそれは絶対真実だ」などといいます。ですが、自分の認識は、本当に正確で歪みのないものでしょうか。

 多くの人たちは、自分のことは観察せず、自分以外の外界のすべてを自分勝手に判断しているのです。そもそもこれが闘争や混乱の原因なのです。

 自分の考えに固執することは、その見解の違いが、争いや混乱の元になるということを知らなければなりません。表面的には結局、力のある方に歩み寄ったり、妥協したりすることが多いでしょうが、それは決して調和的なことではありません。現在の自分という存在から、外側ばかりを見てすべての物事を判断するということが、人間関係をまずくしているのです。そして表面だけをつくろうことに余計なエネルギーを使い、ストレスをためてしまうのです。

内観によって得られた「新しい自分」は、先入観や決まりきった価値観をニュートラルにしていくことができる「自分」です。

 ニュートラルとは、我欲がないことです。早く言えば、何にも偏っていないことです。偏っていない状態で物事を観察し、現実を直視すれば、新しい解決策を探すのが容易になるはずですね。西洋哲学ではよく、テーゼ、それに対するアンチテーゼ、さらに弁証法的に進化したアウフヘーベン(思弁)という問題解決策が、唱えられますよね。内観によって、新しくなったあなたは、頭ではなくて、身体や心で、そのプロセスをなぞることができます。アウフヘーベンを行うことが、簡単にできるようになるのです。

 内観とは、今の場所で何の構えもせずにただひたすら自分の思考をチェックし、その内容を書き出し(外に出し)、それを再確認し、不調和な面は消去することを意味します(書き出し、それを掻き出すという作業をしなければ独り善がりの堂々めぐりとなる)。

自分自身を知る手だては、他者が介入するものではなく、今ここで、そして独りで観察することから始めなければならないのです。そうしなければ「本当の気付き=真の自己発見」という意識変革はできないでしょう。




<気付くことの重み> ↑戻る

 内観によって何が変わるのでしょうか。

 気付くことの重みを、知ることで、今までの未熟だった自分が見えてきます。強情に自己を主張するだけでなく、相手の立場や主張にも耳を傾け、より調和的で効果的な解決策が、模索できるようになります。

気付くということは、何かを教えられることではないし、何かを学んだりすることでもありません。気付くということは、本当のことに気付くだけですから、勉強したり、何らかのトレーニングを積んでも、あるいは、宗教や哲学を学んだとしても気付くことはできないわけです。しかも、これは難しいことではなく、簡単にだれでも行うことができます。

それでは、「気付く」ということはどういうことでしょうか。

それは、「きづく=気付く」ということと、「きずく=築く」ということの違いを理解できれば、意味が分かってくるでしょう。

まず、「築く」ということは、早くいえば家を建てるときのように、時間の経過とともに変化していくような(だんだん仕上がっていくような)ものです。私たち自身についていえば、生まれてから今までにいろいろな環境で学び、経験を重ね、そして培ってきたから現在があるというようなものです。築いてきたから現在があるわけです。

しかし、「形あるモノはいずれ崩れる」の例え通り、この築いてきたものは不変的なものではなく、時間とともに形を変えていきます。当然、私たち自身の思考にしても形のあるものですから同様です。

 さて、これは重要なことですが、「愛」とか「真理」とかいうものは、時間とともに変化する「築く」ということの中には存在しないということです。なぜなら、それらは不変的なものだからです。

 多くの人たちは「愛」と「愛情」を混同しているようです。それは「愛」ではなく「愛情」であり、「愛情」は「情」であって、これは「感情」ですから燃えあがったり、冷めたり、消えたり、ときには憎しみに変わったりするのです。

こうした「感情」は時間とともに変化するものであり、「ほんとうのことに気付く」ことを邪魔するものであるということを知らなければなりません。

一方、「気付く」ということは、時間によって変化しない、普遍的なことであり、「真理」や「愛」などと近い領域と言えます。しかも、この気付くということ、つまり「気付き」は、刻々と変化していく思考の領域にはありませんから、文字や言葉でこれを表現できるものではありません。

これは私たちの考える領域を超えた、体得の世界なのです。しかも難しく考えようとするあなたの頭脳の働きの外にあるものです。つまり、「気付き」は、見つけることですから、だれにでも簡単にできることなのです。

「気付き」は、築き上げてきたもの、あるいは、学んだ結果として現われてきたものではありません。ある意味では全く新しいことであり、また、新しい発見といえるものなのです。

ですから、「気付き」には、どんな権威や、どんな学問、どんな経験、今まで学んできたこと、培ってきたことなど、すべての体験を元にする「先入観」というものや「既成観念」を一切、必要としません。

それらを必要とする「築き」の範疇(はんちゅう)には、「気付き」の意味はないということを理解していただきたいと思います。「ほんとうの気付き」とは不変的なものであり、かつ、普遍的なものになるのです。

 今、あなたはとても大変な困難に直面していますね。でも、それは本当の「気付き」を手に入れるチャンスなのかもしれません。悲しみを喜びに変え、成長につなげるかけがいのない一瞬なのかもしれませんよ。内観によって、あなた自身を、大きく成長させてみてください。